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信州小布施・岩松院

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 新生病院へのツアーで、折角の機会だからと、小布施の「岩松院」に寄りました。「北斎・正則・一茶ゆかりの古寺」です。以前にも来たことがあるのですが、駐車場などが整備され、観光地として一新されています。大きすぎて全景をを納めきれません。
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  総檜造りの仁王門におわす素朴な仁王様像。
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 何と言ってもこの寺院のハイライトは、北斎による本堂天井絵の「八方睨み鳳凰図」です。撮影禁止なのでカメラに収められないのですが、以前は本道に寝転んで天井を見上げたのものです。天井図に使われている金箔が今でもわずかづつながら落ちているそうで、寝転ぶとその金箔が衣服について持ち出しになるのでと、今は寝転びは禁止され、椅子が並んでおり座りながら上を覗くことになっていました。それでも迫力ある鳳凰です。北斎89歳時の作品と言うのですから驚きです。小布施に来たのが83歳のときとのこと。新幹線もない時代のことです。
 
 本堂入口には、北斎を小諸に連れてきた豪商高井鴻山書による「無」の書字があります。蛙の石像が添えられており、「ムカエル」おもてなしだとか、そして下に二匹の蛙がおり「ぶじおかえり」をとの洒落だとか。小布施の開発には高井鴻山を抜きには語れないと言われます。長文で難しい碑文ですが。
 鴻山高井翁碑文
正二位勲一等公爵徳川家達篆額 宮内濡員従三位薫二等文学博士三島毅撰
 信に隱君子有り曰く高井鴻山と、世多く之を知らず、之を知らざるにあらず、用いざるなり。鴻山諱(いみな)は健、字(あざな)は士順、三九郎と称す。平姓高井氏、鴻山は其の号なり。信濃の国上高井郡小布施村の人なり、其の先は小田原北条氏に仕う、而して北条氏の亡んで上国に隠る。後信の北佐久郡市村に移り、因てこれを氏とす。最後は本村に映る。是れ鴻山の十二世祖たり祖父は作左衛門と称し、父は熊太郎。作左衛門英敏にして才幹あり。大いに財産を興す。居宅諸侯に擬す。天明三年浅間山火を噴き、山民多く餓死す。則曰く、之を貸せば則ち償わしめざるを得ず。其の窮(くるしみ)今日より甚し、之を献じて官之を救うに若かずと。代官嗟歎し高井姓を賜い、佩刀(はいとう)を許し以て之を賞す。作左衛門辞して受けず。後鴻山の世に至り之を受けたりという。作左衛門鴻山の非凡の器を知り、命じて京師に遊ばしめ、摩島松南の門に入り、経及び詩文を受け、書を貫名海屋に、画を岸駒父子に学ぶ。居ること数年帰りて支族市村氏の女(むすめ)を娶る。未だ幾(いくばく)ならずして再遊し、梁川星巌に就きて詩を学ぶ。春日宣庵と交り陽明学を研鑽す。前後京都に在ること二十年。星巌江戸に入るに及び、鴻山もまた徙る。星巌曰く、吾輩詩を売りて口を糊す、兄等は国士、宜しく経を修めて以て経論の学を講ずべしと。因りて勧めて学を佐藤一斎に就き、傍国典国雅俳詩及び荷蘭(おらんだ)書を脩(おさ)む。天保七年天下を餞飢(ききん)す、蒼(いそいで)黄国に帰り大いに倉庫を開きて之を救う。嘉永六年米艦浦賀に来り互市を乞い、海内騒然たり、鴻山江戸に入り、攘夷を主張す。文久三年攘夷の詔下る。鴻山同志田口江村と旗下の兵を糾合(あつめ)し、江戸湾を防ぐの策を講ず。この時に当り松平春嶽総裁たり、幕旨を伝えて四方に馳使(ちし)し、学者に問うに時務を以てす。鴻山乃(すなわ)ち建白数十条、裒(ほう)然として冊を成す。内は幕府諸侯旗下士の財務文武学政より、外は海湾防禦巨艦大砲製造等の事に至り、論ずるところ本を抜き源を塞ぎ悉く窾(くわん)穴に中(あた)る。春嶽出でて仕えんことを勧む。応ぜず。これより先、佐久間象山と親しく善し。其の松代に幽屏さるるや竊(ひそか)に書簡を通じて、国事を論ずるに及べば則ち、多く相下らず。象山亡後、信人仰いて泰斗(たいと)となすという。慶応三年幕府の財政大いに窮し、吏を遣して信中の富豪の金を募る。鴻山曰く、吾等三百年の驩虞(かんぐ)の沢を受く、宜しく資産を挙げて以て危急を救うべしと、帰りて之を勘定奉行小栗上野介に報ず。上野介大いに喜こび急使して之を召す。鴻山乃ち約して一万金を献ず。既にして明治中興罷(おわ)り、元年四月幕府の脱兵来りて飯山に屯(たむろ)す。朝廷尾藩に命じて、信州の九藩を率いて之を討たしむ。鴻山幕府の救う可からざるを知り、飯山松代二藩に帰順を勧む。これより官軍駸駸(しんしん)として北進す。盖(けだ)し其の力多きに居る。三年冬長野県民嘯聚六万と称す。到る処火を放ち屋を毀ち、将に小布施を過ぎんとす。家人狼狽し、或いは金庫を鎖じ、或いは家宝を匿す。鴻山笑って曰く、我家未だ嘗て民の怨を買わず、決して侵掠(しんりゃく)の患(わざわい)無からんと、果然(はたして)粛々として炬火を倒し門を過ぎて去る。八年江村勧めて塾を東京芝区に開き、高矣義塾という。生徒頗る進む。既にして西南の乱起り、塾を長野に移し、未だ幾もなく中風に罹り、十六年二月六日没す。文化三年の生れを距(へだた)ること寿七十八。先兆に塟る。男あり辰二といい祀を承く。鴻山の容貌魁梧長さ六尺、天資(うまれつき)豪爽秀潔義侠自ら任ず。上は国家のため、下は窮民の為に、損金すること幾万なるを知らず。八十年の鉅産其の身と共に蕩尽す。盖しまた其の志なるか。
半生多芸にして渉らざる所なし。而して妖怪を描き以て世を諷し、最も巧なる鬼気人を襲うは、殆ど諦視すべからず。然れども是れ其れ余事のみ。雄邁有為の才を抱き、一斉に経世の学を受け、春嶽に一書を上るや、殆んど其の蘊臭を尽せども、亳も時に用いられるる所なく、空しく山中に隠れて終る。嗚呼。是れ幕府の竟(つい)に救わざるを以てか。頃日(さきごろ)門人状を持ち来りて碑文を余に属す。因りて之を闡明(せんめい)にし銘に係して曰く
    信山龍蛇を生ず
    驩虞(かんぐ)沢施さんと欲す
    倐忽(しゅくこつ)山に入りて去り
    沛(はい)()復た至らず
    噫(ああ)
    是人なるか、天なるか
    皥皥(こうこう)たる地をなすところか
       大正二年癸 丑十月 正五位日下部東作書  井亀泉刻
                       昭和五十三年三月 小布施町教育委員会
 
 境内に福島正則の霊廟があるのも有名です。
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  小布施町史跡 福島正則公霊廟  昭和四十八年二月二十日指定 第六号
 福島正則は尾張国二ツ寺村(愛知県美和町)に生まれ、加藤清正とともに豊臣秀吉子飼いの武将として活躍。関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方し、安芸・備後二国で四九万八〇〇〇余石を領する大大名となった。
 元和五年(1619)、広島城の石垣修築が武家諸法度にふれたとして、信州川中島の内二万石、越後魚沼郡二万五〇〇〇石、計四万五〇〇〇石に減封となった。このときの城明け渡しは、後世に伝えられるほど見事であった。
 高井野村(高山村堀之内)に屋敷を構えた正則は松川の治水事業などに取り組んだが、寛永元年(1624)七月十三日、六十四歳でこの世を去った。その際幕府検死役を待たずに遺体を火葬したとして領地は没収された。
 正則は仏教を深く信仰し、岩松院を菩提寺と定めて海福寺の寺号をつけた。
 墓は高さ二・五メートルの五輪塔。台石に「海福寺殿前三品相公月翁正印大居士」と刻まれている。                      小布施町教育委員会
 
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 また、本堂の裏手にある小さな池には、ヒキガエルが生息しており、ここを訪れた俳人・小林一茶が、ここのカエルの合戦を「やせ蛙まけるな一茶これにあり」と詠んだことで有名なところです。一茶には初子が恵まれた頃でしたが、病弱であったので、その我が子への声援の句であったとも言われていますが、その後一ヶ月足らずで亡くなってしまったという悲しいエピサードがあります。一茶、54歳のときだといわれます。
 
イメージ 8  新生病院の近く「栗の小径」広場周辺に、小布施の見所が集中していますが、その核になるのが「北斎館」です。小布施での北斎の生き様が伺える記念館です。中でも山車に描かれた図絵のすばらしさは郡を抜いたものです。
 
 
 
 
 
  (「高井鴻山記念館」⇒http://blogs.yahoo.co.jp/akira_o2ka/50476332.html 07.11.19)
  (「小布施・栗の小径広場」⇒http://blogs.yahoo.co.jp/akira_o2ka/50493160.html 07.11.20)
  

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