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荒船山神社遥拝殿

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 内山コスモス街道を行き来していると、相立集落で、路傍に大きな老木を抱き、古めいた鳥居のある神社がある見ていますが、しもた屋風で神社らしくないので気になっていました。岩船山山頂にある奥宮と内山の平地にある里宮の間にある遥拝殿と言われるもののようです。鳥居には「正一位荒船山大明神」と記されています。拝殿正面の奥には磐座が祀られています。ここから荒船山を遥拝していたのでしょう。
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 拝殿の正面窓辺に「荒船山神社由緒」と、詳細な説明書きがありました。随分と古びて、長くて、読みにくいのですが、参考までに。
荒船山神社由緒
 荒船山神社(あらふねやまじんじゃ)の御祭神は、信濃国一の宮の諏訪明神である建御名方命(たけみなかたのみこと・大国主命の御子神)です。
 [信濃地名考上編倭名鈔(わみょうしょう)。]に「按(あんずる)ニ諏訪郡ハ天平年中(729748)普省()ニ定メタル地区ナリ其ノサキ佐久小県筑摩伊奈ノ四郡ニワタッテ州羽ノ域最モ広シト思ワル、或曰(いわく)イト上津代(かみつよ・大昔)ハ諏訪神社佐久郡ニ在トゾ、造郡(郡が定まった頃)ノ以前サモアリケル歟()、世伝ニ坂上田村麿悪賊退治ノ願ニヨリテ諏訪社ヲ建ラルト云々。」〔国史〕ニ桓武帝延暦二十年(801)征夷将軍坂上田村麿征東夷」とみえます。
 要するに建御名方命諏訪神本社は田村麿が諏訪社創建以前は佐久郡にあったとしています。
 〔下仁田町誌〕によりますと「建御名方命と経津主命との戦いは最終的には荒船山が倭朝(やまとちょう)軍と国神軍との和議成立の場であったとして、今も荒船山中央部に「皇朝家古修歩之地」と高さ約二・八M(メートル)の石柱碑が建立されています。
 〔日本名蹟図絵〕に「経津主(ふつぬしの)(大和朝廷方と建御名方命(国つ神方)と神戦あり千曲川の水が七日間血に染った。とみえ、この図絵からも佐久は激戦地だったと推定されます。
 〔神道集延文三年 安居院著〕の諏訪明神の章を訳文してみますと次のようです。「好美女という印度の王様の第三姫がおりました。父は隣国の王に攻め亡ぼされ姫も亡ぼされ姫も敵王に囚われそうになり、逃れて船で我国に来て笹岡郡(さこぐん=佐久郡)笹岡山(さこやま=荒船山)に来て船を山の峰にうつぶせにし、その周囲に鉾(ほこ・柵か)をさか立てて住み、火の雨降らすを防ぐ()と誓って笹岡山を守っていました。安閑天皇の御代(535536)諏訪神が姥(はは)のいる日光男山に通ううち盤船を守る好美女と良い仲になり互に相見上りつつ夫婦となり給えば諏訪神の妃の下諏訪の神腹立ててしっとの由聞こえて、諏訪神はやむなく甘楽(上州)笹岡尾崎に社を建てて住み好美女一人この盤船守るべしとて笹岡山に留(とどめ)今の世に荒船明神と申す即ちこれなり。」(本文和漢混交文)
 明治三十六年内務省神社局差出文書控によりますと、當社荒船山神社は近郷十二か村と入会(いりあい)の郷社で、徳川時代中期には正一位大明神でした。諏訪明神は信濃一ノ宮でありこの祭神建御名方命と荒船明神は、一身同体の神であり、雨乞すれば神徳の験(しるし)かならずあり、農家の経営に偉功を現す神様です。景行天皇四十年(140)、信州と越の賊皇室に随(したがわ)ず日本武命(やまとたけるのみこと)甲斐の北武蔵、上野と転戦し信州界碓井坂に来て山高く谷深く人は杖に倚り馬は頓(ぬかづき)、日本武命も渇し水を求めても無く、若丸君を荒船明神に遣(つかわ)しやっと荒船本沢の清水を得て命(みこと)に差上、命も甘き水と嬉ばれ、若丸君を再度荒船明神に遣て感謝され、この旧蹟今も一杯水と称してあり、祈雨の御神水で必ず験(しるし)無しということなし。近郷の村々より請願する者多く、この神徳遠くへも聴(きこ)えて、延徳元年(1489)足利東山将軍義政公深く當社を崇(うやまい)、葵の御紋金幣を納められ祭典(さいてん)御神幸(しんこう)の際に仮殿(かりでん・大間)より一の鳥居(相立)まで御輿の前に眞榊(まさかき)を立て、木綿(ゆう・御幣 ごへい)に御紋を附し神前に供えるを例とし、四月廿八日と九月二十日に御神幸を実施していました。明治元年新政府となり禁止され以後葵の御紋は用いず、明治三年焼失してしまいました。足利義政とは室町幕府将軍で一四八三年京都の東山に山荘を建て住んでいましたが、死後遺命によって銀閣寺とした将軍で下賀茂神社の葵祭(あおいまつり)に大いに力を入れていました。この祭神は賀茂別雷命母、玉依姫外祖賀茂建角身命を祀り、神武天皇東征の際に八咫鳥(やたがらす)となり天皇を案内導き、又勅命により兄磯(えしき)、弟磯(おとしき)に降参するよう観(すすめ)た古事に例ってか、荒船神に捧げたと思われます。
 〔古図荒船山〕に「草も木もみな緑なる 深ぜりには 荒船の宮白く見ゆらん 輔相(すけみ)」この輔相という公は摂政藤原良房(貞観十四年死)の弟大蔵大輔當興の子で藤原輔相(治部小輔)のことです。
 内山大間(うちやまおおま)の荒船山神社神職である小間澤家墓地より掘り出された墓碑に「小間兵部助藤原信安、天長二歳六月」と刻字が読めます。治部少輔の輔相と行政面で何か関係があり、無関係とは考えられません。
 (中略)
 荒船山神社は創建年代は明らかではありませんが、吉田家より正一位大明神を裁許され、皇室に関係していたお宮だと推定され、今も御神幸並に相立の遥拝殿にて探湯(くがだち)神事と舞を荒船山を拝して奉納しています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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