松代地下壕を見学に行った折りに途中で寄ったところです。寺社奉行を努めた山寺家の庭園が、無料の休憩所となって解放されています。地下壕見学者にとってはトイレを借りる格好の場です。通りに面した大きな表門が目を引きます。
山寺家は松代藩で知行160万石の中流武士の家格でした。江戸時代の終わりには山寺常山を輩出し、鎌原桐山、佐久間象山とともに松代の三山と称えられました。常山は号で幼名を久道、のちに信龍と名のり、通称を源太夫といいました。
常山は若かりし頃、江戸に出て儒学者佐藤一斎や中村敬宇らと親交を深めました。松代藩主真田幸貫の信望も厚く、藩政にも尽力し、寺社奉行、郡奉行を努めたほか、藩士に兵学を教授し、また藩主の側にあってその政務を補佐しました。
明治になってからは中央政府の招きを固辞し、藩に留まり、晩年は長野に塾を開いて門人の教育につとめました。
現在、山寺常山邸には、江戸時代終わりから明治初期にかけて建てられたと推定される表門と、この表門の南側に大正時代終わりから昭和初期にかけて建てられたとれる推定される書院(対竹盧)が残されています。ただし、屋敷内の主屋等は大正時代には失われており、その規模などを知ることはできません。
表門はいわゆる長屋門形式で、その全幅は約22メートルあり、松代城下に残る門のなかでは最大です。また、書院も近代和風建築の秀作であり、背後の山(象山)との調和もよく、時代差を感じさせない優れた意匠性を見ることができます。なお、現在の園池は大正時代に造られたものを再整備したものです。
屋敷内北寄りに建つ山寺常山の頌徳碑は、孫の塩野季彦らが、長野城山に建つ碑文の摩耗を憂いて、昭和15年にここに建立したものです。
開門時間:午前9時から午後5時まで 長野市
庭園は特に手を入れているというほどのものではないのですが、鯉が泳ぎ、ゆったりした池を中心にしたものです。神田川の自然水を引き入れ、浄化の機能が施されており、下流の屋敷方へはその浄化水を流しているということで、優れた水路整備として評価されているそうです。