Quantcast
Channel: 信州小諸通信
Viewing all articles
Browse latest Browse all 262

「この街にも戦争があった」遺跡めぐり(1)

$
0
0
 「九条を守るこもろの会」がこの地域に残る戦跡めぐりをするというのに誘いを受け参加してみました。
 最初は小諸市内の東唐松にある平和公園内の「殉職観音像」です。さくらの季節に訪れたことがありましたが、平和の視点から改めて学ぶべきことがあります。
イメージ 1   悲しみは遺されし者のみに
 1958(昭和33)年、戦没者と満蒙開拓犠牲者の慰霊のために、小諸市と小諸市遺族会によって建てられた。
 その碑文には、「地球上ヨリ戦禍ノ惨害ヲ一掃シ永遠ニ平和ノ天国ヲ現前セシメン」と平和を祈る文が見られる。しかし、戦争に対するみ見方については、中国や英米と戦って「終ニ肇国以来ノ国辱ヲ招来シ、父祖ノ遺跡ヲ失墜ス、憐ムベシ」と記すだけで、日本の侵略戦争への反省や中国をはじめとするアジアの人々に対する加害者としての責任という視点があいまいで不充分となっている。  (「この街にも戦争があった」より)
 
 傍らの記念碑にも「日清日露ノ二大戦後ヲ経テ燦然世界第一等國ノ班ニ列ス」とか、殉職した兵士の「英霊ヲ奉祀シ聊カ供養報謝ノ微喪ヲ献グ」といった表現が記されており、まさに安倍首相が口にしている語調そっくりであることを改めて知り、時代が逆行していることを知るよい遺跡と思われました。
 
     (「平和公園・殉職観音像」⇒http://blogs.yahoo.co.jp/akira_o2ka/61541501.html’12.6.1)
 
 次に案内を受けたのは、北国街道・国道18号線に並行する田切地形に見られる「軍事物資を隠匿した洞穴群」遺跡です。御代田町馬瀬口から小諸市平原一帯に見られますが、大部崩落しており、惜しい戦跡です。
イメージ 2イメージ 3
                  
 断崖に口を開けた不気味な横穴
 太平洋戦争末期、日本本土への攻撃の恐れが強くなると学童疎開が始まるいっぽう、軍事物資も危険を避けるために地方の安全な場所に移されることになった。兵器廠の武器、弾薬、燃料、糧秣(人馬の食物)廠の缶詰め、粉味噌、固形燃料、被服廠の毛布、鉄かぶと、ミシン等の軍事物資を隠匿する場所として選ばれたのが浅間山麓の御代田町馬瀬口の北方から小諸市平原にかけて流れる川沿いの一帯とその周辺地域である。
 この辺りには田切地形が多く、その崖になったところに横穴をたくさん掘って軍事物資を隠匿した。縦横23メートル、奥行数十メートルの横穴作りの作業には付近の住民だけでなく、北佐久郡から南佐久郡の住民まで勤労奉仕ということで動員された。とくに、穴の数が最も多い旧小沼村(御代田町)では、小学校の児童が授業も受けず、教師に引率されて現場に行き、数か月にわたって連日この穴掘り、土運びの重労働に従事した。授業より戦争に協力することが優先されたのである。
 なお、敗戦後、洞穴の中の物資は軽井沢に駐屯していた進駐軍により接収された。(「この街にも戦争があった」より)
 
イメージ 4イメージ 5                 
 
 ほとんどの洞穴が崩落し、入口には背高の雑草が覆っていて、放置されたままです。中は廃棄物が散乱しているなど、まったく管理されていないのです。高齢の経験者の説明では、ここから9キロも離れている望月村からも学童が動員されていたとのこと。敗戦後には、軍事物資が進駐軍から流れ出し、鮭缶など、大変なご馳走となったとの思いで話がありました。 

Viewing all articles
Browse latest Browse all 262

Latest Images

Trending Articles





Latest Images